ポーランド旅行 アウシュヴィッツ・ビルケナウ編
2009/05/23(Sat) 18:51:46
アウシュヴィッツをはじめとする強制収容所は、第2次世界大戦中、ナチス・ドイツ占領下の土地からとらえられたユダヤ人を収容した施設として有名だが、ユダヤ人のみならず、ポーランド人、ジプシーたちも捕らえられ、連れてこられた。強制収容所に連れてこられた者は過酷な労働に従事させられた後に殺されたが、当時強制収容所は慢性的なキャパオーバーであったため、収容所に着くなり、すぐに殺された者も多かったようである。
有名なアウシュヴィッツ強制収容所は、クラクフから約50km離れた、オシフィエンチム(ドイツ読みでアウシュヴィッツ)にある。ここで殺された人の数は、百数十万人に及ぶが、戦後正確な情報公開がなされなかったことと、収容されずに続々と殺された者が相当数居たことから、正確な数は分かっていないという。

「ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)」と書かれた入り口の門。
「ARIBEIT」の「B」は上下さかさまになっており、収容者のせめてもの抵抗の証とされている。

現在は、囚人棟の一部が資料館として利用されている。
ナチスが収容者から没収した、おびただしい量の衣服、トランク、靴のほか、
遺体から押収したメガネ、そして切り取られた毛髪などが展示されており、
思わず目を塞いでしまいそうな光景である。

銃殺が行われた壁。たくさんの花がささげられている。

ガス室。収容所到着後の医者による「選別」で、働くことができないと判断された女性や子供、高齢者たちは、「シャワーを浴びさせてあげる」と言われ、ここに誘導された。
使用されたガスはチクロンBというもので、通常はシラミ退治等に使われるものであったらしい。
なお、ガス室の使用は、「いかに残虐に人を殺すか」ではなく、「いかに効率的に大量殺戮を行うか」という点がクローズアップされたものであったらしい。また、遺体の償却や、遺品や毛髪の押収はナチスではなく、刑の延期と引き換えに囚人に実施させるシステムになっていたという。

敷地外にある絞首台。これは、戦後、収容所の看守の死刑に用いられた。

ローラー。収容所は戦時中も建設が進行していた。
労働者は囚人たちであり、このローラーを使用して収容所ないの道をならしていたという。

屋根がない囚人棟。
建物建築中に戦争が終わったらしい。

収容所を囲む有刺鉄線。当時は高圧電流が流れていた。
自分の運命を憂い、電線に自ら触れて自殺を図る囚人もいたそうだ。

こちらは、アウシュヴィッツ強制収容所から約2km程度離れたビルケナウ。
ここは、アウシュヴィッツよりも広大であり、九万人程度の囚人が収容されていた。
(アウシュヴィッツはピーク時二万人程度)
鉄道引き込み線が「死の門」と呼ばれる入り口ゲートへと続いており、
収容所内で行き止まりになっている。

収容所内の鉄道引き込み線跡。
花が供えられている。ここは、戦争を伝える博物館としてだけでなく、
ここで亡くなった遺族にとってはお墓としての位置づけらしい。

アウシュヴィッツは煉瓦製だったが、ビルケナウは木造の収容所である。
これは、戦局が悪化し、資金難に陥ったかららしい。

収容所内。厩舎として設計されたため、非常に粗末。
ただし、ポーランドの冬場は厳しく、囚人の凍死を防ぐため(労働力確保のため)、
暖炉が備え付けられていた。

厩舎として設計された証。
馬をつなぐ金具が壁についている。

コンクリートに穴をあけただけの便所。
ただし、自由に使用することはできず、決められた時間のみ使用を許された。

空間を効率的に使用するための3段ベッド。
1段に2名ずつ寝かせられたという。

死の門の上の看守台から見たビルケナウ内。非常に広大。

我々を案内してくださった、アウシュヴィッツ博物館の唯一の日本人専属ガイドの中谷剛さん(写真右)。穏やかながら重みのある語り口で、丁寧に説明をしてくださった。
中谷氏の著書を持参していた我が妻はサインをしていただくことができた。
同じ人間が行ったホロコーストという行為を目からも耳からも自分に焼き付けることができたことは、
非常に大きな経験であったと思う。予想以上に重かった。
さて、次回はヴロツワフなどなど。





